読書感想: 「野の春」宮本輝 著

 大好きな作家です。ベストセラー作家が生まれるには、「100年かかる」。 作中、5部か6部か父「熊吾」が、まだ作者である「伸仁」が子供だった折に語り聞かせた言葉からだ。「人を作るには100年かかる」。

 そして、宮本輝という本人曰くストリーテーラが生まれたのは、この父母に生まれたからだ。作家は、自分の人生だけでなく、父母から語り継がれた戦争前からの経験を、見聞きしそれを通して多くの作品を書いたのだ。

 もしも、時間が許せば、一気にもう一度読み直さなければならない作品リストを書いたなら、宮本輝の「流転の海」9部も加えなければならない。

 いや、加えた。

 個人的には、ただ金のためだけに長く働いてきた、だらだらサラリーマン生活の中で、宮本輝様の作品は、私にとっては宝石のようなものだ。今となってみれば、仕事の事はただ忍従の記憶しかないのに、折々に読んできた宮本輝の作品は、不思議な彩をもって思い出すことができる。「錦繍」などは、いまだに衝撃にも似た読後感が忘れられない。秋の枯葉を踏みしめた時の、色、香りと共にため息が漏れるほどの完成度だ。

 「野の春」は、良いも悪いも濃いキャラクターの「熊吾」の人生の終焉を描いている。だが、それまでにあとがきにもあるように、37年の歳月をかけ、作家が健康を危ぶみながら完成させた大作だ。宮本輝の名を見れば読まずにいられない読者も少なくとも30年かけて読み続けてきた作品だ。

 情にあつく今でいうコンサルタント能力にたけている熊吾ゆえ、登場人物が多い。30年かけて読んできた作品ゆえ、それが誰がどこでどうなったか、読んでいるこちらはすでに記憶がおぼろげだ。ゆえにもう一度読み直さなければならない作品なのだ。

 書店で見かけたならば、必ず手にとらないわけにはいかない。読みだしたら、この熊吾という男の泥臭い体臭がするほどの独自の世界に引き込まれてしまう。一度も会ったこともない男だが、すでに私の中では、生きて会話を聞き、顔も知る、おそらくは少し怖いおじさんなのだ。酔えば女房を半殺しにする、忌嫌う最大の欠点のある、だが、何度失敗しても再起する不思議な才覚のある男なのだ。そして、晩年、若いだけの姉ちゃんとうっかり暮らすため最愛の息子とも離れる、型破りで情けない煩悩の男でもあるのだ。作家からすれば、きわめて題材の宝庫。どこを切っても作品のヒントがある。そしてこんな欠点だらけの男をこれほどまでに魅力的に書ける、愛がある、その人間としての器が、宮本輝という作家をベストセラー作家にさせたのだ。冒頭のベストセラー作家を生むには「100年」かかったと書いた理由だ。

 このシリーズには、宮本輝が他の作品を紡ぎだせた、その基になる経験、知識がいたるところに隠されている。この作家さんの作品を全部、いや、一つでも好きになったら、この「流転の海」9部作は読まなければならない作品なのだ。しかし、この粘り気のある文体、読みだしたら最後、眠れなくなります。

 そういえば、ベートーベンも交響曲は9番までだ。後世に作品が残せるクリエーターにとって9という数字には、またぞろ意味があるのだろうか。

 

 追記: 豊かな感受性と、食へのこだわりに関連性があるのだろうか。熊吾も晩年糖尿病になり寝つきながらも、ポタージュスープへのこだわりを見せた。妻の房江は料理上手をかわれ職を得て生計を支えた。さすれば、作家自身も味覚は発達していたに違いない。

 個人的に偏見のそしりを恐れずに言うと、情が薄い、気が利かないと感じる人に、味音痴、料理下手が多い。さすれば、人を見分ける時に、その人の食の好み、食へのこだわりを見れば、ある程度、その人となりがわかるということだろうか。高い金をだし、高級グルメ店通いにいそしむばかりが、食通ではない。日常の食事の話だ。卵料理にしても、使い慣れたフライパンと旅先では、まったく勝手が違う。

 だが、料理人で、めちゃめちゃ人付き合いの悪い人もいるが、その人の料理はまずくはない。職業と嗜好は分けて考えるべきだろうか。こんな所も、今後、人を見る時に注意してみたいと思う。読書とは、誠に深いものだと思う。

 

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流転の海 第1部 (新潮文庫)

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  • 作者:輝, 宮本
  • 発売日: 1990/04/27
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野の春―流転の海 第九部―

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