読書感想: 「幸福な王子・忠実な友達(The Devoted Friend)」オスカー・ワイルド 著

  昨夜、「忠実な友達」を読んでしまい、今朝もまだ胸が痛い。

 子供の頃、絶対読んだはずの童話だ。まさか、ここまで胸かきむしられるとは思わなかった。1880年発表の「幸福な王子」と他の童話の後の方に載っている物語だ。

  発端は、穴ネズミの独身男が、友情こそが一番美しく、愛情などあてにならないと断言したことに、小鳥が道徳的な教訓を話だした事による。

 平凡な独りぼっちの農夫(人間)が、「友情とは」と厚かましく相手を利用するだけの金持ちの口約束に翻弄されて、最後は、全く悲しい結末だ。勧善懲悪どころか、金持ちは最後、自分が彼を都合よく利用し続けた事さえ反省もせず、彼が今まで身を削り尽くしてくれたあれこれを他に誰が変わりにしてくれるのかと、彼を嘆くのではなく、自分のこれからを嘆くだけなのだ。。。

 なぜ、どうして、こんな悲惨で、貪欲な話が、子供むけの童話なのだろうか。なぜ、私は、これほどまでに胸が痛むのだろうか。

 それは、利用され悲惨な最期を向かえる主人公が、愚かな負け犬と自分に重なり思えてくるからかもしれない。これが童話とイギリスで受け入れられるのは、「負け犬」という意味の”loser”というあざけりの言葉が一般的に使われる西洋文化と、思ってもその単語を口にする文化がなかった日本文化の根本的な差かもしれない。

 1880年イギリスといえば、産業革命に成功し繁栄し、資本家と労働者階級の貧富の差が顕著になり、待遇改善を求めて労働者が立ち上がった時だ。オスカー・ワイルドは、アイルランド出身だ。今でさえ解決されていないイギリス本土との根深い確執、差別、虐待があったに違いない。

 しかも、作家オスカー・ワイルドは後に当時投獄までされるほど禁止だった男色に目覚め、身を滅ぼしていく。どこかに、他者から利用され、あげく捨てられる人間への共感があったのだろう。搾取する側、される側、両者の人間性が、絶妙に表現されている。

 

 しかし、この金持ちの強欲じじいの言いぐさは、まるで、現代じゃないか。この詭弁、良くもま、これだけ自分に都合の良い言葉が次々と出てくる事。

 1880年から多少は法が整備されているはずだった。世の中は、良い方向へ改善されているはずだった。

 それが、コロナ禍に見舞われた今、4割は非正規で、外資では日本でさえも即日解雇が横行している。昨日、失業者の大幅な増加が、発表されたばかりだ。

 法は整備されているはずだ。世の中は、まともになっているはずだった。。。

 

 

 主人公のハンスは、良い人だが、ここまで行くとちょっと頭が足りない部類に入る。読んでいても腹がたってしょうがない。NOと言いなさい。利用されてるだけですよ。

 だが、彼が金持ちの友達に、利用され食べ物のなくなった冬の姿は、まるで小さな部屋で孤独死していく老後のように思える。寒くひもじさに震え、孤独がハンスの判断力を弱らせる。冬の間、訪ねてくれる人さえなかった主人公は、春、畑の作物を搾取するためだけに訪ねてきた金持ちの、決して守られる事のなかった、壊れた手押し車を譲ると言ってくれた言葉を信じて、すべて言いなりになる。

 「あなたに友達がいがない奴だと思われたくない」

 「断ったら、友達がいがないと思いますか」

 搾取される側の、屈折した心理を一行で言い表している。作家は舞台劇でも成功を収めている。才能の塊だ。

 

 病的なまでの自己中心な金持ち男は、それが世知だと言わんばかりに、全く、搾取される側の痛みを考える事もない。自分。自分。自分。

 あなたの周りにも、一見、見栄えが良い、だがその人と関わりあいになると、次は絶対に会わずにおこう。この人と関わりあいになるのはやめようと、何とも不愉快な気分になる人はいませんか。女でも、男でも、こういう超自己中心的な人間がいます。そして、この金持ちのセリフの一つ一つが、本当に、そういう人間が口にしそうな事ばかりなのです。まるで、オスカー・ワイルドの近くに実際にいたに違いないと思わせるほどです。

 そして、愚かなハンスは、本当にかわいそうな最期を迎えます。この物語に何の救いもない。

 

 本当に、何の救いもない物語が、語りつがれるでしょうか。

 一般大衆というものは、軽薄で勧善懲悪を好むものです。あまりに難解で悲惨な話が、140年たった今でも語り継がれるなんて事はないはずです。それが、事実でもなければ、、、、

 オックスフォード大学を首席で卒業したオスカー・ワイルドは、良く読まないと理解できない、伏線を残してくれています。それが実にわかりにくいから、悲惨きわまりない読後感だけが残りますが。。。

 

 冒頭で、幼いアヒルに母親が何度も何度も、子供に水の上で逆立ちを教えます。

「覚えなければ、良い社会(上流)に入れませんよ」

 童話の中では逆立ちダンスになっている。しかしアヒルは、水中で小魚をとるために、一見逆立ちしているように嘴を水の中につける。この術を体得しない事には、餌がとれない。ネズミにはそれが、ダンスにしか見えない。母親は何度も教える。

 この童話は資本主義が台頭し法が今よりも整備されず守られていなかった労働者階級に、身を守る術を童話として書かれたのだろうか。あるいは限られた田舎社会で、隣人と適度な距離をとって生きる術を伝えたかったのだろうか。

 だが、そこに何かしら人の胸を打つ真実があったからこそ、140年後の今も本にはいっているのだ。そして、今、読んでも辛いのだ。私が子供ではなくなり社会で辛い思いをして働いてきた経験があるからこそ、この童話の意味がやっとくみ取れるようになったからだろう。

 母アヒルは言います。

 「親は我慢強く、教えなければなりません」

 子供の頃読んだとしても、覚えてもいないはずだ。あの頃の私は、逆立ちができない子供のアヒルのように、教えてくれる親の後を追いかけるだけで、それが何のためか、食べるために働くという事の難しさと大切さも知らなかったのだ。子供で、餌とりはできず、ただ逆立ちダンスをまねて踊っていたからだ。

 何の関係もないこのアヒル親子の様子を、あえて冒頭で描いた。これがこの救いのない結末に、意味を与えているのです。

 すごい長い間、もんもんとなんでこんな話が童話なの、と考えないとわからない話です。

 しかし、一番大事な事は、こんな哀しい童話、夜寝る前に読んではいけません。

 

追記: 

 ところで、あなたはこの本を子供に買い与えますか。

 う~~ん。知らないおじさんについていったら行けませんとは、散々教えるのに、そういえば、日本人って、他人の欲深さの怖さを子供に教えることってないですね。日本は、やはり村社会だから、こんな強欲な生き方してれば、すぐ指さされますからね。。。(そう言えば、それで殺人事件起きてましたね。村人が年寄ばかりで村で一番若い人に神社を修復させる費用も労苦も一人でさせて、我慢がきれたその壮年の人が、、、って事件。無料で慈善の労苦を無理強いする事件は、日本でも、ありました。老人が集団でエゴ丸出しの醜い結果でした。。。)

 

 西洋人にこの物語の教訓がわからないのかと聞かれました。

 ???

 そうか、これが、カルチャーショックか。農耕民族と狩猟民族の違いが童話にもでてくるのか。。。

 日本の昔話でも、強欲爺さんは必ず何か罰がくだりますから、こんな悪いもの勝ちのまま終わる話あるのでしょうか。意味がわからないのかと聞かれて、ショックでした。英語がわからないのでなくて、悪い人に罰がくだらない、良い人が死んじゃう、その結末が嫌いなの。どう、説明すればわかるんだ。

 だまされる方も悪いって考え方なんだよね。。。ショックでした。ああ、島国日本、国際人の道は遠いぞ!

 

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幸福な王子―ワイルド童話全集 (新潮文庫)
 

 

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