小説: わんぐっどてぃんぐ 第一部 戦中編 第一章 地主の家族-3

 「慎吾兄様は大学の研究室に残れなかったら、従軍することになると言って寄こしました」と、長男の慎吾の近況を伝えた。
 二人は、洋二郎が士官学校に上がってからは、すれ違い会えずにいた。以前慎吾が突然帰って来た折に、佐和に語った慎吾の希望は言わずにいた。
 自分は研究者には向いていないので、大学病院に職を希望していますが、このご時世ですから、どうなるかわかりません。慎吾は眼鏡をかけ痩せた顔でうつむき、口早に佐和を見ないで言った。母の苦労を見てきたので、自分を軍医見習にさせたくない気持ちはわかっていた。しかし戦時、一人の人間の希望など言い出せるはずもなかった。ただ、女一人で子供四人を育てた母に、召集されたら生きて戻れない事もあるだろうとは言い出せなかった。

 洋二郎は自分が食べ終わると、無造作に盆を台所の房に手渡し、権太に目配せをした。今宵は月が明るい。母に咎められぬよう抜け出し、もうひとっ走り丘にあがり月に照らされる坂上家の地所を眺めておきたかった。
花は洋二郎を見上げ、
 「権太さん、今夜は洋二郎兄様が帰ってきたから、風呂を早めに入れてください。清兄さん、早く入ってくださいね」と、すずやかな笑顔を向けた。
 三男の清は食べ終わると立ち上がり、
 「陸軍では二年間入営すれば、予備兵になりまた戻ってこれます。自分は勉強は苦手ですからそうします」と言い捨てると盆もそのままに居間を出て行った。
 佐和は舌打ちをしたい程、三男の不出来が腹立たしかった。しかし、花の手前できず、隣の仏間を見やった。
 あなた様に似てしまって。あんなに無茶なさるから、私一人であのように浅はかな子供に育ってしまいました。
 死んだ夫の女遊びに泣かされ、あげく、あっけなく先立たれた苦労のはけ口に、夫への恨みを繰り返すのが常だった。親が決めた家に嫁ぎ、嫁としての勤めを果たす。それが当然と思って生きてきたが、恨めしいと思う気持ちはどうすることもできずにいた。
 権太は、居間の家族の盆の上の皿をまとめ井戸端まで運ぶと、風呂を沸かすため裏庭に回った。
 そこに、散歩に行きそびれた洋二郎が来た。東京の大学で学んでいた建築の本を開くと、権太に説明を始めた。外国では、土を高温で焼き、長方形の煉瓦をいくつも作る。それを積み上げて、大きな建造物を作る。頁をめくりながら、何枚もの設計図や外観図を見せてくれるのだが、田舎から時々使いで東京に行っただけの権太には、外国の城や橋など想像もつかなかった。

  この戦時中に、外国の本など田舎の蔵にでも隠しておかなければならなかった。町で憲兵に見つかれば、洋二郎でもただではすまない。五右衛門風呂の焚き付けの橙色の炎に温められ、洋二郎の肉のついてない広い額やほおが赤らみ、権太は男でも美男子だと横顔を眺めた。洋二郎は、女達からいつも憧れられ、共に従う権太に付文を強引に渡され何度も困らされた。当の本人は父親には似ず、女性を追いかけるそぶりは見せなかった。
 
 「中兄様、お風呂先に入ってください」
 花が廊下から裏庭に声をかけてきた。兄弟が多いので、風呂の順番に花は神経質になっていた。そして、風呂焚きをする権太にとっても、風呂に入りたがらない洋二郎や清に早く入ってもらわねばならなかった。佐和や花が入ったあとでなければ、権太がはいれないせいもあった。花が入るまでは、何とか風呂を気持ち良い温度にしておきたかったのだ。

 「やはり、お風呂は気持ち良いね」
 花の無邪気な声に、佐和は女は風呂場で声を出してはならないとたしなめた。その声に焚付け場にいる権太の顔が赤らむ事には気づいていなかった。

わんぐっどていんぐ: 第二部 帰郷編

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あらすじ

 手が届かない人ーー親に早くに死なれ地主の家に引き取られた権太は、次男の洋二郎に可愛がられ育ち、末娘の花に秘かに恋焦がれていた。第二次世界大戦末期、戦局は厳しくなるばかりだった。権太にも召集令状が来た。当然の事と出兵する前夜、権太は花が奉納する舞を見る。

 もう、二度と花様の顔を見る事ができないかも知れない、自分がこの世から消えるよりそれが怖い。

 異国で再会した洋二郎。その恋。空爆を受け洋二郎が下した命令。神父の言葉「わんぐっどてぃんぐ」。その意味がわからない権太。別れ。激しくなるばかりの空襲、そして敗戦。 

 権太は、地主の家族は、生き残れるか。権太は花に会えるだろうか。