やがて、洋二郎は娘と親しくなり二人で会えるために小さな家を探しだした。洋二郎はいつしか休みの度にそこに通うようになった。
権太は、世間体が悪いとか、日本の母親への報告など、洋二郎がどう考えているのか、口をはさむべきか悩みもした。しかし、娘を見つめる洋二郎の真剣な眼差しを見ると、権太は何も言えなかった。
命令が出ればすぐにでも前線に出なければならない自分達に、束の間でも愛する女がいれば、その時だけは死の恐怖から解放される。洋二郎の突然の恋は、生きた証を必死に残そうとする、人間の本能が燃え上がっているようにも思えた。
見慣れぬ異国の街並みを大股で歩く洋二郎の背中を追いかけながら、権太も洋二郎の気持ちがわかるような気がした。
自分も花様が目の前にいたら、我慢できないかもしれない。いつか花様が桜を見上げ微笑んだ横顔を思い出した。だが、淡い桜の花びらが花様の体に重なり、それがやがて白無垢に見えると権太は、胸にずきんと痛みを覚えた。
どんなに好きでも、決してそうとは言う事はできない人だ。権太は自分に言い聞かせた。
休みのたびに宿舎を抜けて娘の家へと通いだすと、洋二郎が明るくなったり、時にふさぎ込んだり起伏が激しくなった事に権太は気が付いた。娘への愛と厳しくなるばかりの戦局での軍務の遂行で、悩みが深くなるのは無理もない事だった。
ある夜、いつものように白湯をお届けすると、洋二郎は国からの手紙が来たと見せ、
「花に縁談があるそうだ」と、権太に背中を見向け一言伝えた。
権太は、しばらく手に盆を持ったまま考え、
「おめでとうございます」
洋二郎の背中を見つめ、小さな盆を脇のテーブルにそっと置き、そう答えた。洋二郎はそのまま机に座り背を向けているので、権太は敬礼をすると部屋を出た。
夜の訓練場には誰もいなかった。権太は全力で走り出した。いつかはこの時がくるとわかっていた事だ。権太はただ走った。涙も出ない。自分にはどうする事もできない。胸が苦しくなりもうこれ以上走れなくなると、木の脇に座りこみ、肩を揺らし荒い息を吐いた。
昔、春の日差しの中で、花様が握り飯を自分に渡してくれた時の白い手が浮かびあがってくる。お嬢様の手から包みを受け取ろうと手を伸ばした。あの時、自分は花様の手さえ触れる事もできなかったのだ。
もう、一生、できない。
洋二郎に子供ができた。あの娘が身ごもったのだ。権太は孫が生まれたら、さすがに奥様にお知らせしなければなるまいと、喜ばしいことのはずが、困った事のように考える自分を申し訳なく思った。しかし、洋二郎に素直におめでとうございますとは言えずにいた。
何事にも真面目で慎重な洋二郎が、この結婚だけは激情のまま、辛い現実を忘れたくて娘に溺れているのではと危ぶまれた。
洋二郎の長い人生設計は、いつか生きて日本に帰り、好きな建築の仕事で日本の将来の礎を築く。洋二郎の才は、煉瓦を組み立て精緻な建造物を作っていくようにもっと堅実なものと佐和奥様は期待している事を、権太は知っていた。
洗い場で片づけをしている権太の横で、炊事班長が酒の在庫が尽きていると困っていた。軍隊は物資を優先的にまわされているはずだった。海路を断たれ物資の配布が滞りがちになり、酒が足りなくなっていた。
兵士達は、酒を浴びるように飲む。不安な気持ちを忘れて眠りに落ち、翌朝は何も考えずに命令に従う。それで何とか、規律を守りつつ自分の定められた順番が来るのを待つ。酒が切れるのは、彼らの無言の忍従へ導く薬がきれる事であり、あってはならない事であった。
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