「帰りましょう。ここは私たちの出入りするような場所ではありません」
権太は、いつになく強引に洋二郎の腕をつかむと、今来た方へ戻ろうとした。
洋二郎は動かない。
しばらく店を見ていると、娘が店先に出てきて、給仕を始めた。住民の男達の娘を見る目つきに、娘が決して本当の父親の店を手伝っているだけではないと、権太は察した。だが、それは洋二郎たちの権限外の事で、どうしてやれる事でもなかった。ただ、花お嬢様とそう年の変わらない美しい娘の行く末が、この戦時下で決して安楽ではないだろうと察せられた。
洋二郎の顔をうかがうと、洋二郎は娘を見つめている。その娘を追いかける目が、子供の頃、権太に良く声をかけてくれた時の目を思い出させた。井戸端で茶碗を落とした時、清に殴られた時、不思議に洋二郎は現れて、時に怪我の傷を洗い流し、泣いていれば懐から金平糖や、干し芋を取り出し権太に分け与えた。そして、何の話をするでもなく傍にいてくれた。
洋二郎は、店へと入って行く。権太は引き止めようと追いかけたが、間に合わなかった。仕方なく洋二郎について店に入るしかなかった。それまで娘の胸や腰を盗み見ていた四、五人の男たちが、見慣れぬ日本兵の二人が入ってくると振り向いた。権太は、少しでも洋二郎をその男達から遠ざけようと、洋二郎を出口近くに座らせた。
娘は洋二郎を見ると、驚いた風であったが、すぐにこちらに歩いてきた。改めて見れば、確かに美しい顔で、ブラウスの胸が歩くたびに揺れていた。男達が群がるのも無理もない娘だった。
洋二郎が、腹に手をあて、飯を食うまねをして見せ、自分と権太を指さした。娘はうなずくと、飲み物はと、何かを飲むまねをして見せた。
生水は腹を壊す。休日とはいえ、外では酒は飲めない。ましてや、このあたりでは日本兵は見かけない地域であった。まわりを見まわし、洋二郎は困ったように権太を見た。酒は飲めないと、どう伝えれば良いのだろうか。
権太は、酔ったふりをしてみせ、胸のまえで、だめだと大きく腕を交差させ、首を振ってみせた。娘は笑いながらうなずくと後ろへと去っていった。
「言葉も通じませんよ」
権太は洋二郎を説き伏せるように言った。
やがて食事が運ばれてきた。薄いパンを二つに折り、その中に野菜や肉を入れ揚げたものだ。味付けは添えられた汁につけて食べると、娘は手で何度もつける真似をして見せた。食べ慣れない香辛料の味がして権太は、パンだけを食べた。
洋二郎はと言えば、真面目な顔をして、食べた事もない味の汁にパンをつけ最後まで食べた。
油があわないだろうに、今夜は、何か消化の良いものをお持ちし、白湯を沢山飲まないと、胃の調子が悪いだろう。権太は額に汗をかきながら食べる洋二郎を見ながら、どうしたものかと考えた。
店を出ると権太は洋二郎の前を歩きだした。二度と来ない店、洋二郎が道順を覚えないように早足で歩いた。娘に向ける洋二郎の視線が、いつも見慣れた女に無関心のそれと違うようで、それが不安にさせていた。
「今頃、家では何を食べていますかね」
権太は、暗い居間で盆を並べて食事をする奥様と花お嬢様、房だけの食事風景を思い浮かべた。柱の時計の音までも懐かしく思い出せた。
夏は、畑から取れた野菜をつけた浅漬けに味噌汁に野菜をたっぷり入れる、村の誰かが川からどじょうを取ってくれば、房がしょうゆ、みりん、酒で煮たおかずが晩にでる。男手がなくても食べる位は何とかなるはずだった。
「浅漬けのきゅうりが食べたいな」
洋二郎が箸で口に一片を運ぶしぐさをしながら笑いかけた。
「房さんが作った味噌をつけたら三本は食べれる」
権太が一本ごとかじるような真似をして答えた。さわやかな歯ごたえに田舎味噌を思うと、口の中でよだれが出てきた。
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