権太は、娘の元に戻りかけたが、何も伝えられない事に気が付いた。
権太は娘の目をまっすぐ見つめ敬礼をした。娘が立ち上がる。教会の漆喰の壁にろうそくの光を受け、娘の体の影が泣いているように揺れていた。大きくなってきたお腹の上に手を置き、ほっそりとした足がスカートから出て、素足はろうそくの光を受けて輝いていた。日本人の女より丸みをおびたきれいな曲線を描いて立つ娘の姿を見ると、権太でさえ血潮がうずいた。
洋二郎様は、この柔らかな肌に触れている時だけ、湿気のように常にへばりついてくる執拗な死の恐怖を忘れたに違いない。
生きてください。
権太の心の声が娘には伝わるはずはなかった。娘の目には涙が溢れ、果物のように甘そうな唇はろうそくの光を受け桃色に濡れていた。権太は大きな声で娘に伝えた。
「生き抜いてください、何があっても」
権太の日本語が教会の壁に反響し鐘のように響いた。自分と洋二郎の行く先には暗黒しかなくても、この健康な若い生命、娘と小さな命にはろうそくの光ほどの情けがかけられ、守られることを権太は心から願った。
教会を走り出た時、権太はもう一度振り向いた。神父様が隣の塔へと上がっていく。手にした白い布に朝日が反射していた。
昨夜の空襲が嘘のように、そこだけ穏やかで美しい光景に、権太は立ち止まり塔を見上げた。その一瞬、戦争などない平和で神聖な空気に包まれた。太陽の日を受け白い布が塔に掲げられるにつれ風に揺れ、反射するその清浄な光で塔の周りが清められていくようだった。
兵舎だった今は崩れた焼け跡には、生き残った兵士が集められ、すでに移動が始まっていた。宿舎跡には、焼け焦げて誰かもわからない黒い死体が転がり、片づけられもせず放置されていた。ここに残れば、また襲撃され、逃げ込む場所もなく自分も同じようになる。残った兵は口には出さぬが、その足はいつもより速かった。
権太は、洋二郎がいる本部のテントに駆け込むと、洋二郎と二人になれる機会をうかがった。しかし、洋二郎も横目で権太の無事を確認はしたが、職務に忙しく二人で会話できる機会はなかった。軍は一斉に焼け跡を後にし、後方のジャングルへと入っていく。
「中尉殿に、水をお持ちしました」
夜になり軍の逃避行がこれ以上無理なほど暗くなり、野営が決まると、権太は洋二郎に話かけられる機会を見つけた。周囲から、大尉殿と訂正された。今朝、空きを補充するため急遽、昇進したのだった。
権太の詫びと挨拶も早々に、洋二郎は人のいない木陰に歩きだした。小便のふりをする洋二郎に、権太は小さな声でささやいた。
「娘は無事教会に連れて行けました。神父様に手紙を渡し、神父様はわんぐっどてぃんぐと言いました。その後、塔に白旗を掲げているのを見ました」と伝えた。
「One Good Thing.」
洋二郎はそうつぶやくと、ふっと皮肉そうに顔をゆがめ、すぐにテントに戻ろうとする。意味がわからず権太がその背中に聞くと、
「善行。それに一度と断りをつけてきた」
洋二郎は、振り向きもせず口早に答え、すぐテントへと戻って行った。
権太は早足に去っていく洋二郎の背中を見ながら、神父様の言葉は皮肉ではなく、聞いた者が安堵するような、もっと深い意味があったと、次に話ができた機会に忘れずに伝えようと考えた。
洋二郎の背中は、筋肉がついているはずなのに薄く痩せ、急ぎ戻りながら少しふらついたように見えた。
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