私見: 自叙伝のすすめ 戦中戦後の女の記憶

 先日、尊敬する宮本輝様の「流転の海」第9部「野の春」を読んだ。その際、流行作家は、この父母の経験も血肉にして多くの作品を残したと実感した。

 昨日、偶然にも母が亡くなった祖母の自分史を見つけたと手渡してきた。祖母が亡くなってもうすでに14年たつ。この薄い教科書サイズ22ページの自分史を手渡された時は、私も働いていたので、目を通したかどうかの記憶さえない。亡くなった3年前に書かれたものだった。

 私が血もつながらない大作家の人生を反芻するように拝読する姿を、天国から見ていて、もどかしく思い、押しの強かった祖母が自分も本を書いたと自己主張しているかとおかしくなった。

 祖母は、鹿児島に生まれ軍人の娘だった。戦争中、使用人を使う生活をしたお嬢様気質が終生抜けなかった。敗戦後、三か月の母を抱え実家に戻ったが、戦後の飢餓の時代、口減らしのように農家へ再度嫁いだ。それが苦労の始まりだった。あの天地がひっくり返った敗戦の5年を耐え忍べば、十分に職業婦人として子供を養い、もっと良い再婚先があったかもしれない女性だったにもかかわらずだ。晩年祖母はこの再婚を後悔する言葉も漏らしていた。

 「お前たちは、自分で働いて食っていけるから、本当にうらやましい」

 祖母は、夜中、電話をかけてきては何時間も東京で離れて暮らす母に、日々の不満や些事を話していた。それが、煩わしくて、私は最初挨拶を交わすと、すぐ自分の部屋に引きこもってしまった。居間に戻るとまだ話こんでいる母の声に時計を見上げたものだった。

 祖母は、病床で私に、「お前は、紙と筆を捨てるな」と伝えてきた。その時、私は東京で家のベッドと地下鉄、会社を往復するだけの無気力なサラリーマン生活に神経をすり減らし、自分はただの使い捨ての奴隷と変わりないと半ば投げやりだった。

 その時から、自分が早期退職という形で第二の人生を模索しなければならない時がくると覚悟はしていた。奴隷が、やっと自分の足で歩ける自由を得るのだ。ただし飯は自分で稼がなければならない。「紙と筆」、どこまで先を見通した言葉だったのだろうか。

 晩年祖母は、田舎の息子夫婦の些細な日常でたまった鬱憤を、東京の狭い我が家で解消するために、年に一度二週間ほど滞在するのが常になった。難しい性格の祖母の三食面倒を見てくれている長男のお嫁さんに対する慰労の二週間でもあり、我が家にとっては、血のつながった不思議な愛着が毒舌にまぶされた、誠に濃厚な忍耐を必要とする女三世代の交わりの日々でもあった。

 息子夫婦に鼻であしらわれ、意見を聞いてもらえない鬱憤を祖母は、自分の娘、私の母に何度も語り続ける。大尉だった父の頭脳をもらった天性の毒舌家が農作業で鍛えあげた体力を、昼働く私たちに機関銃のように早口でぶつけてくるのだ。母は、祖母が田舎に戻ると必ず1週間は寝ついた。私は、部屋へ早々に引きこもった。それでも話の断片は耳に入った。

 「老いを笑うな、いつか行く道」

 テレビのニュースに気を取られている私の背中に祖母が急に話しかけた。振り向くと、去年よりまた一回り小さくなった祖母が、布団に正座をしてじっと私を見つめていた。気が強い祖母でさえ、東京で働き神経をいらだたせている私には遠慮して、その毒舌を控えていた。満員電車に押し込められ都心のビルに働きに出る私はいらだちが顔に出ていたのだろう。孫の無関心な冷たい背中に祖母がかけてきた言葉と小さくなった姿を、今も覚えている。

 

 祖母が逝ってしまうと、我が家の電話は鳴らなくなった。

 わが親子は、無条件に暑苦しいまでの愛を降り注ぎつづけた人を永遠に失ったのだ。それが、ひしひしと身につまされたのは、葬式の直後だった。

 「お前に飲ませる茶もなければ、座らせる座布団もない」 

 祖母の再婚先で生まれた戸籍的には次女、母の義妹から、私はそう告げられた。そうだ、この地主の家の血は私には一滴も入ってないのだ。生前、祖母は、再婚先の父親の血を濃く受けたこの次女を毛嫌いした。次女は気の強さだけは祖母に似たが、獣のように粗雑な神経と知能だった。初婚の時とは真逆の夫の遺伝子をあまりにも濃く受け継いでいた。祖母が私たち長女親子をより慕い通ったのは、海軍学校で一番の成績を収めたという最初の夫、戦争で27歳で死んでしまった最初の夫の優しい遺伝子を濃く感じていたからに違いなかった。実祖父にとっては、短かったが人生で一番幸せだった結婚生活だったに違いないと祖母は話していた。

 祖母の書いた、薄い22ページの自分史の中に、二度の結婚のいきさつは少ない。ただ再婚を勧められた時に、敗戦と生まれてまもない私の母を抱え、実家は職業軍人で急に働くことさえ禁じられ途方にくれた尊敬する父と、幼い三人の兄弟がいたとあった。敗戦直後、上野の駅前で一日6人の餓死者が見つかった時代だ。推して知るべし。

 「一言われたら、十先を読め」軍人に鍛え上げられた祖母の口癖。

 二度目の結婚も、最初の夏に慣れない農作業で40度の熱を出して寝込んだとしかない。私たちが聞いてきた、暴力や女性、自分の遺伝子は薄くより夫に似てしまった子供たち、みじめな結婚生活の愚痴は一言も書いてなかった。

 「入れてくれる高校がなくって、頭を下げて遠くの高校を探して歩いた」祖母は、自分の生んだ子の考えなしの言動を嘆き続けた。知能は50%が遺伝だから仕方ない、そう私は祖母を何度もなぐさめた。しかし見事なまでに祖母の血を引いた子は出て来なかった。

 私は、早期退職後、暇をもてあましブログを始めた。するとなぜか書きたくなった。いつの間にか、それは戦後を生きた女の話になった。かなり話を盛りつけ、読むに堪える紆余曲折もつけた。それでも、話のどこかに、夜聞くともなしに聞かざるえなかった祖母と母の話が透けてきてしまう。意識せずとも祖母の人生が私の意識の奥に埋もれていたのだ。最期に「紙と筆」と言ってよこした祖母の言葉に踊らされてもいるのだ。

 祖母が亡くなってすでに17年。晩年、ますます相容れなくなった次女は葬式で私たちを赤面させ憤慨させた。亡骸がすえられた祭壇に駆け寄り突然叫んだ。

 「この性根が腐った、くそばばあ」

 しごく単純な造作の顔についた眼をつりあげ次女が仁王立ちして、祭壇の祖母を見下していた。その時、血が逆流し耳の裏がうずいた短い瞬間を私は今も忘れられない。

 私はあわてて、斎場を見回した。

 後方に座る喪服の老女と目があった。その目は生前の祖母の嘆きを聞き、理解したであろう旧知の老女の目だった。両手を合わせたままちょこんと座り、私を見つめていた。私は怒りと哀しみ、そして、生んでもらった子が母親に投げるにはあまりに下劣な言葉に、終生嘆き続けた祖母の女の人生の哀れを、こみ上げてくる涙で何とか流した。この再婚先の家族は連れ子だった母に日常的に暴力をふるい、次女は包丁で殺すと脅した、何をするかわからない気性の人々だった。怒りのあまり、肩を震わせ泣く私に母はそっと囁いた。関わりあいになってはならない。祖母の再婚先で18歳まで命をつなぎ身を清らかに保った母が、子供ながらに身に着けた防御策だった。

 そういう心根の夫、舅姑、小姑がとぐろを巻く家に、戦後の飢餓を生き残るために、祖母は母を連れ嫁いだ。

 

 今や、自分もコロナなどという不可解なウィルスでいつ最期を迎えるのか、わからない世の中になった。いつしか祖母に似て体が一回り小さくなってきた母は、それでも、爆弾が空から降ってこないし食べる物も買える、なんて事もないと、戦後を生きた人は年をとっても腹がすわっている。バブル時代を働くばかりで子供を産めなかった私は、孤独死しかない。しかし、今、手元にある薄い22ページの祖母の自分史を読み返す時、私は、戦前戦後の時代の激流の中で必死に生きぬいた祖母の人生を宝物のように感じるのだ。

 これをお読みの、自分の最期を憂いてしまう老齢に達せられた方々は、たとえ今すぐ、孫が興味を示してくれなかったとしても、自分史と一枚の写真位は残しておいて欲しいのだ。若すぎて全く興味を示さなかった孫もいつかその年になる。

 「老いを笑うな、いつか行く道」

 子供の頃、手を引かれ見上げた田舎の家、東京と違うビルの見えない空、夏の容赦ない太陽に照り付けられた草の匂い、そして、祖母の声、話、今でも覚えている厳しさ、激情の裏に隠された優しさ、愛情。そんなうざいまでの様々な物事がよみがえってくる。

 他の誰にも価値のないものだが、愛された分だけ私には価値のある、薄い22ページの冊子が突然見つかった。私には、まるで天国から祖母が手渡してきたように思えるのだ。

 

 

 ↓ 恥ずかしながら、ほそぼそと書いてます。

↓ 探せば、いくらでもハウツー本は出てくるものです。

あなたの人生を豊かにする 最高の知的投資!  自費出版成功の極意

あなたの人生を豊かにする 最高の知的投資! 自費出版成功の極意

  • 作者:武者 由布子
  • 発売日: 2019/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)