小説: わんぐっどてぃんぐ 第一部 戦中編 第八章 帰郷

 

 船が大きく揺れ、権太は背中の洋二郎の頭が肩にぶつかる夢から覚めた。暗い洞窟に落ち、血しぶきを浴びる夢を見ていた。
 喉が渇きまわりを見回すが、狭い船室に多くの人が重なり合うように寝ている。
起きだすと甲板へとあがった。潮でぬれても、甲板は空気が良いので、そこで寝ている者もいた。日本に近づくに連れ風は寒くなり、次第に人も少なくなった。
 見下ろすと、船の腹に海流があたり、白い渦を巻いている。権太は自分の汚れた手を洗い流したくて、水面に届くかと上半身を屈め手を伸ばした。
 「田所、落ちるなよ」
 誰かに肩をつかまれ、甲板に座り込まされた。見上げれば、佐藤炊事班長殿が立っていた。権太は頭をふりながら、そのまま、ううとうめき声をあげ、また洞窟の暗闇の中、洋二郎を探してさまよう夢へと落ちていった。

 

 佐藤は、田所上等兵を引きずるようにジャングルを逃げた。あれ以来全く正気をなくし、夢を見たのか突然夜に子供のように泣く。
 田所を連れまわすことに手間取り、結局部隊とははぐれてしまった。上官と田所が幼馴染だとは聞いていたが、士官と兵という身分を超えた兄弟のような交友を好ましく見ていた。まさか、二人があのように過酷な別れを経験するとは、佐藤は実直な権太を不憫に感じていた。
 最初は単に部下であった権太への責任感からであったが、二人きりになってみれば、この広すぎるジャングルで、犬のように従順な田所でも側にいてくれるという奇妙な安心感もあった。

 濃い繁みをかき分け、佐藤は久しぶりにヤシの実を見つけ、やっと落とし拾い上げた時、気配にふと目をあげると、白い肌と黒い肌の兵士が仁王立ちしていた。
 お互い一瞬立ちすくみ、すぐ兵士が手にしていた銃口をこちらに向けた。
 もう、終わりだ。
 佐藤は覚悟し、ヤシの実を落とし両手を揚げた。武器などずっと以前に尽きて、戦うすべもない。
 権太は、無気力に石の上に腰かけ、逃げようとさえしなかった。

 

 佐藤と権太は捕虜収容所に連れていかれた。そこで日本の敗戦、ポツダム宣言により帰国が許される事などを他の捕虜達から聞いた。
 収容所でも田所は頻繁に手を洗いたがり、時々、突然泣き出し、あとはうつらうつら寝ているばかりで、昔の素朴な良く働く彼には戻らなかった。

 日本に向かう船に乗せられると、何もすることが無くなった夜に佐藤は、ただぼんやり座っているだけの権太に話しかけた。
 浅草で小さな定食屋を営んでいた事。子供は小学校に上がったばかりで、三年会えてない事。忙しい店の準備の合間に、学校からもどった息子が宿題をするのを手伝い、息子が丸刈りの小さな頭を左にかしげて、答えを教えてもうおうと見上げた時の顔が愛らしくて、今でも覚えている事。妻は気が強くて、口答えが多いが、何とか戻ったらまた二人で店を出したいと思っている。息子はもう十歳だから大きくなっただろう。まさか自分の顔を忘れてはいやしいだろうかと、取り止めもなく、田所に話し続けた。
 そうしていないと、今にも暗い船室の陰から、むっくり死んだ兵士達の顔が浮かび上がってきそうな、蛆のようにわく不安がつきまとっていた。


  

 
 

 

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わんぐっどていんぐ: 第二部 帰郷編

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